連戦連敗中、勝ち知らずの隠れ創価学会員の逃走記

信仰に限らず、人生、結局は自分自身との闘いだと分かっちゃいても、いつも自分に負けっぱなし。

2つの神頼み。最近、自分が心掛けたいこと。

聖教新聞に、病気で苦しむ人の祈り方が書いてあった。


「形式ではなく、命を打ち込んで、御本尊にすがりつくのです。
命を御本尊に差し上げるくらいの、本当の決意をもった題目ならば、治らないわけがありません」
との戸田先生の指導を通し、

池田先生は
「自分の全細胞を一新させるくらいの決意で祈るのです。
六十兆の全細胞一つ一つの薬王菩薩(心身の病気を治し、生命を健康にする力用)をたたき起こして、発動させるのです」と。
と、これは、病気の時のことだけではなく、何かに悩む時全てに通じる祈り方だと思う。けれど、これを日々の中で毎回というのは、常人には難しい。やっぱり、何か差し迫った困難に直面してでないと、人は、なかなかこうは祈れない。自分なんかは、困難に直面してでさえも、こういう祈り方ができなかった。

ところで、こういう祈り方って、俗に言う「神頼み」ってもんじゃないかと、ふつうの人は思うし、大人数で南無妙法蓮華経を唱えている映像なんかを見たりでもしたら、創価学会って狂信的な神頼み集団かと思われても仕方がない。


けれど、一方で、


現実は厳しい。


一番いけないのは無責任です。


「御本尊を拝んでいるから、なんとかなるだろう」というのは信心利用です。


祈ったならば、全力あげて、全身全霊で、それを実現していくために戦うのが、まことの信心です。


法華経智慧

 


と、いわゆる「神頼み」的な祈り、「神頼み」的な信心はダメだと戒めてもいる。が、これまた、分かっちゃいるが、なかなか難しい。自分なんかも、いつもよりちょっと多めにお題目を上げただけで安心してしまい、困難打開のための現実的な努力を二の次にしてしまい、最終的にはダメでしたみたいな事の繰り返しだ。

誤解されると困るのだけど、創価学会員がみんなそうだとは思わないで欲しい。しっかり祈って、しっかり現実的な努力もし、しっかり結果を出している人が多くいる。だからこそ、ダメな自分でも、今よりは、ちょっとはああいうふうに! ちょっとはマシな人生を!と思って、学会員であり続けている。まぁ、学会員でなくとも、そういう人はたくさんいるけど。


ところで、生涯無敗だったという江戸時代の剣豪、宮本武蔵は、
「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」という言葉を残しているらしい。一人で数十人を相手にした命がけの決闘の場に向かう際に、神社の前を通りがかり、一旦は自身の勝利を祈願しようとしたが、それを思いとどまったらしい。

若い頃、これにはう〜んと唸ったものだが、そんな心構えもどこへやら?で数十年、気がつけば、神仏を尊ぶのでさえ、どこへやら?
しかし、宮本武蔵みたいなこんな悟達の人って、学会員であろうがなかろうが、なかなか少ないと思う。が、学会員としても、こういう心構えは、心のどこかで持ってないといけない。こう書くと、だったら御本尊様要らないじゃんと言われそうだが、「人事を尽くして天命を待つ」的な心構え、そういうのは必要じゃないかと。


神頼みには、2つの種類があると思う。


一つは、人事を尽くしてない神頼み
一つは、人事を尽くしての神頼み


自分は、どちらも良いと思う。人事を尽くしての神頼み、祈りってのが、そりぁ理想だけれども、人事を尽すも何も無い、どうしょうもない、のっぴきならない状況ってある。そんな時、人は何かに祈らずにはいられないから。
ただ、自分はホントに、人事を尽くさな過ぎたと、今更後悔しても遅いのだけど、もう少しいろいろと努力しなきゃ!と。


そして、

 


ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなえ給え。
 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。

 

四条金吾殿御返事

 


みたいに、楽しくてもお題目、苦しくてもお題目、嬉しくても、悲しくても、どんな時にもお題目を唱えていけるようになりたい。
そう、思っています。
これって、例えば、クリスチャンの人も、同じようなものが理想なのだろうなぁ。